漆の器の使い方
漆の器だからと言って、別に難しい事はなにもない。愛用という言葉があるが、人は愛用している器は自然に大切に扱うものだ。 だから愛用できるか否かが、まずは、大事な基準となる。それから、最近普及している食洗器は使えない。
ただ使えないよりも、何故使えないのかを書いておこう。塗り物は、ガラスや陶磁器より表面が柔らかいので、細かな傷を付けてしまう可能性がある。なによりも漆にとって最大の難関は、乾燥のための急激な温度変化である。ご承知のように漆の器の下地は木地という文字通り、木製だ。漆には様々な工程があって、とても簡単に説明できるものではないが、乱暴に言えば、漆の器は木地の木と塗った漆の二つの層でできている。 それが短時間のうちに何十度という急激な温度変化にさらされると、狂う。 木と漆では、狂い方が異なるので、変形したり、ひびが入ったりする。 だから、食洗器は使わない方が良い。
油分のない、ご飯や味噌汁であれば、水洗いだけでよい。油分のあるものを食べたあとは、薄い洗剤でさっと洗っておしまいだ。水気をのこさず、洗ったあとは拭いておく事も大切だ。
要は、愛用している普通の器
矢沢さんの器を何故お勧めするのか
矢沢さんの作品にも「ハレ」用の立派なものもあるのだが、やはり毎日使う器をお勧めしたい。
矢沢さんの器の素晴らしさは「よそいき」のものは少ない。ご本人の言葉どおり、日常の器である。一分の隙もない緊張感を伴った「ハレ」の器とは趣を異にし、優しい線と、人の使う器としての優しさがある。手の仕事である事を僅かに主張している部分もある。
矢沢さんの仕事
漆の世界で彼は間違いなくベテランの一員だ。長年の仕事を通じてすべての基本を知り抜いている。 新しい表現やデザインのものでも、どこをきちんと押さえて木地は欅やトチ、黄檗など多様な木材を、適材適所というか物によって使い分ける。木地師に依頼するものも、粗挽きのあと矢沢さんが自らひとつ、ひとつ仕上げていく木地もある。 漆も時節がら輸入品も使うが、やはり仕上げは国産の漆にこだわっている。
やさしさは何処からくるのか
矢沢さんはアフリカのクラフトが好きだ。工房を訪ねた私たちにも、秘密のコレクションが詰まった部屋でアフリカの布を、うれしそうに見せてくれた。
矢沢さんの直営ギャラリーの鎌思堂の中央にもアフリカの長椅子が置かれている。プリミティブアートというのだろうか、そこには無造作なやさしさがある。デザイナーの手にかかっているわけではないし、意図して美しいものをつくろうとも思っていない。自然な手の仕事のもたらす優しさだろう。
私は長年、矢沢さんのお椀を愛用している。
お椀というものは、それこそ星の数ほどあるのだが、姿、形や重さ、そして雰囲気など、こだわればこだわるほど選ぶのが難しい。だから自分が好きになれそうなお椀との出合いは殆ど、偶然の出合いともいえる。
なによりも、日々使うというのは値頃感というのがあって、いかに美しいものであっても背伸びをして求めると、なにか「もったいなくって」日々の器というわけにはいかない。
先日、誤ってお椀を落として、縁にほんの僅かのひびが入ってしまった。矢沢さんは、直し方に二つあって、一つは補修した上で全体を塗り直す方法と、傷んだ所を部分的に修理する方法だそうだ。私はなんの躊躇もなく、部分修理をお願いした。矢沢さんの器には、それが似合うと思ったからだ。
修理した場所が少しだけふくらんで、ここを補修したという事がわかる。
再び、日々愛用を続けている。
矢沢さんの漆
「日常の生活で、気に入った工芸品を使うのは楽しい事です。
私は古くなるほどに美しい、根来塗を手本にしながら、愛用していると味わいの深まる、そんな漆器をつくりたいと、日々工夫しております。」
これは矢沢さんの作品の箱に必ず入っている説明書の冒頭の文章からの引用だが、これこそ矢沢さんの漆を表現する一節だと思う。 矢沢さんの器には、不思議な魅力がある。その魅力を具体的に表現することは難しい。だから見て欲しい、手にとってほしいと思う、そして気に入ったら使ってみてほしいと思う。
漆の器
独断の分類だが、漆の器は、陶磁器や他の物と同様に「ハレ」と「ケ」によって選び方が異なるように思う。
見栄を張るわけではないが、お客様を迎えての食卓には、それなりの華やかさや緊張感があってよい。美しい蒔絵のお椀や、とても繊細な美しさを持った器などが、これにあたる。日々の器には、どんなに形が美しくても、張りつめた緊張感は似合わないと思う。
紙漉は禅に通じる
紙は紙である。前にも述べたが技術の習得は並大抵の努力ではなかろうという事は、仕上がった紙を見れば、触れば、誰しも推察できることであろう。
ただ作業は紙を漉く事である。単純作業だ。
ならば、工場の生産ラインと同じではないかという疑問もあろう、実際に何も知らずに端から見ていれば、そのように映るかもしれない。
ただ決定的に異なるのは、工場の生産ラインは人間のミスを最小限にすることを前提に設計されている。ボルト一本締めるのも、きつく締めてという指示があったとしても締め方は担当の人の体力や腕力で異なる。だから生産ラインでは、お相撲さんが締めても、非力なお嬢さんが締めても同じように締めることができるように力(締め付トルクという)がコントロールされている。
紙漉には、外から見れば同じ作業に見えても、その技量が問われる、指先から全身の神経が紙漉に向かって集中される。 手でしかできない、人間でなければできない仕事である。なにかの理由で手元が狂えば、流の中の紙とは異なる一枚になるだろう。 井谷さんは全体が紙漉になってしまっているから、そんなややこしい事は考えもせず、目をつむっても紙が漉けるのだろう。でも全身のセンサーが無意識のうちに機能していることにかわりはない。
ただひたすら紙を漉く。私には禅の修行のようにも見える。
最近偶然にこんなことがあった。
何十枚かが重ねられた紙を一枚一枚めくっていく。ふと手が止まるところがある。「うん?」と思って、もう一度やってみる、やはり手が止まる。なにかが微妙に違う。それはなんだかわからない、はたして紙の厚さなのだろうか、ごく僅かなテクスチャーの差なのだろうか。繰り返すが、私は紙のプロではない。
たまたま近くにいた、紙のプロに聞いてみた。彼も「たしかに違う」と言っていたので、私の勘違いではなさそうだ。
厚さだとすれば百分の一ミリ単位の違いだろう。和紙の原料は植物繊維だから工業製品のように均一な原料というわけにはいかない。どんなに丁寧な仕事をしてもロットで僅かな差はやむを得ない。
何故か私はこの小さな発見がとても楽しかった。この程度の差はたとえ機械で作られたモノでも誤差のうちかもしれないが、全てが均一、均質化される世の中にあって、手仕事の神髄に触れたような気がする体験であった。
家族のちから
紙漉は家族の力で成り立っている。すべての工程を含めて一人の力ではできない仕事だ。
井谷家でも皆で仕事をする。井谷さんの父親である先代の岩夫さんは、息子の七代目の襲名をもって現場から引退した。七代目に引き継いだ以上、多少未熟なところが見えたとて、無用な口出しはしないと決めた。ねっからの筋金入りの職人である。
紙漉は渡しても、心で息子を支え、無言のうちに叱咤激励しながら、山ほどある雑用を知らぬ顔をして手伝っている。
一方おばあちゃんは現役だ、楮の皮むきの手つきもまことに見事で、井谷さんの奥さんもがんばっているが、今のところおばあちゃんに部がありそうだ。
井谷さんに「三度のごはんを365日一緒に食べて、喧嘩はしないのか」と聞いてみた事がある。
「もちろん、しますよ」要は喧嘩の震度によって、口をきかない時間が短いか数日にわたるかということらしい。
「仕事は止まるよね」が次の問い、答えは「止まらないのです」仕事は黙って自分の分担を黙々と続けるそうです。
喧嘩をしようと、なにをしようと、家族の絆はしっかりと結ばれ、一層堅固になる事はあっても緩む事は無い。 お互いの役割分担、領域をまもりながら、お互いに尊敬し合える家族、日本の家族というものはきっとこういうものだったのだろうと思う。
井谷伸次さんは江戸時代から続く紙漉の七代目
紙の話が長くなったが、井谷伸次さんの話にもどそう。
井谷さんは不思議な人だ。四六時中仕事のことを考えている。仕事とは紙のことだ。だから我々のようにアイディアがどうだとか、商品開発とかヒット商品とか、という視点とは少しばかり異なるように思える。
紙漉の技術は修行がいるのは当然としても、極めて単純だ。その原点はおそらく千年前とそう変わっているとは思えない。
時代とともに、人々の細かな工夫が積み重ねられてきていることは間違いないが、おそらく紙漉の歴史の中での最大の変化は漉いた紙の乾燥方法ではなかろうか。
漉き上げた紙を板に貼って天日で乾燥させる。これが古来からの方法だ。そうですかと言ってしまえばそれまでだが、この、当たり前ともいえる、濡れた紙を板に貼って天日で乾かすという「こと」が、紙漉の生活の多くを物語ることに気づくだろう。
まず、天候に左右される仕事である。
今でも部分的ながら天日干しを手がける井谷さんと電話で話していると「いや、天気が少しばかり心配で」という言葉が登場する。
今では殆どの紙漉場には、電気などの熱源をそなえた金属板の乾燥機があり、天候に左右されることはない。ただ、これは紙の素人の私の推測にしかすぎないのだが、天日干しは太陽光の晒し効果があるように思えるのだが、どうだろう。
こうした乾燥機が普及する前は、庭中に何十枚という板を並べて天日に干すのは大変な力仕事であったに違いない。又当然のことながら効率を考えると板の両面に漉いた紙を貼る。だから一面が乾いたら板をひっくり返す手間がいる。
まして、突然の雨がきたらどうする。家族総出で板を取り込んだにちがいない。
順序が逆だが、紙を漉く前の原料の仕込みも大変な手間のかかる仕事だ。現代の都会に暮らす私のようなずぼらな人間にとっては、よくまあ、これほどの手間をと思うのだが、井谷家の人々は、輝く笑顔で話しながら、手先は黙々と動き続けている。
千年を超える和紙の歴史
井谷伸次さんは紙漉(かみすき)職人だ。今の時代では紙漉といっても知らない人もいるのかもしれない。
日常私たちが使っている紙は、大別して洋紙と和紙とに分類される。日頃使っている紙、コピー用紙、新聞紙など殆どが洋紙で、粉砕された木材のチップを原料としている。多少極端かもしれないが、日々の生活の中で和紙が登場するシーンは殆ど無いといっても過言ではなかろう。せいぜい上等な祝儀袋ぐらいかもしれない。
和紙というのは、天平時代から日本で作られてきた紙で、楮や三椏などの植物の繊維が原料だ。技法については中国からの渡来とされているが、なんでも工夫する日本人は当時から日本独特の植物繊維を使って、工夫を重ねており、千年後の現在見ても美しい紙を漉いている。
和紙というのが、我々日本人にとっていかに身近なものであったかといえば、家、すなわち住宅が象徴的だろう。日本の建築は木と紙でできているとまで言われたものだ。住宅の構造は、ご承知のとおり木材、その木材の空間を仕切る間仕切りが、襖や障子だ。いずれも素材は紙だ。詳しくは別に書く機会もあろうから、この辺にするが、日本人の生活と和紙は、生活空間から手紙、ちり紙に至るまで、切っても切り離せないものであった。
洋紙の歴史は和紙に比べるとだいぶ時差があり、日本で洋紙が本格的に使われるようになったのは明治に入ってからのことだと思う。
一般的に洋紙の保存性は和紙に比べて低く、組成によってのことであろうが数十年とも百年ともいわれている。
日本の和紙は正倉院という世界でも希な保存装置や大寺院のおかげで現代まで伝えられ、その恐るべき保存性そのものが現物を伴って実証されている。又、和紙の技法は世界で最も薄く美しい紙をつくることができるとも言われ、特に美術品の修復では世界的に貢献していることは広く知られている。
字が上手になる紙
にわかには信じがたいと思うが、この紙で書くと字が上手になる。 弘法筆を選ばずというのは誰でもご存じだが、実際は筆も選び、墨も選び、紙も選ぶと良い。 特に紙は墨の発色と筆の滑りと直接に関係するので、紙によって恐ろしいように変化する。ただ、このコメントはあくまでも記録としての文書であって、いわゆる書道の世界ではない。書の世界は筆触とも言われるように紙を含めての作品づくりなので、紙に対する評価基準が全く異なる。
例をあげれば、是非写経に使ってみてほしい。(写経用紙も販売を予定している)天平の時代にタイムスリップしたような、素晴らしい作品が生まれる、最高の紙だ。
魔法の便箋
ではなんなのか、あるお客様が、この便箋を称して「魔法の便せん」と名付けてくれた。理由は、この便箋を使い始めてから、様々なお仕事がうまく展開するようになったとのこと。
当たり前だが、これは決して便箋のせいではなく、お使いになる方の思いの問題なのだが、きっとご自身の中で自用の便箋の美しさに対する思いが何かの力を添えてくれているのかもしれない。
たかが紙
たかが紙と言ってしまえばそれまでだ。一通の手紙が千年保存されることを考えて紙を選ぶ人などいるはずがない。風合いひとつとっても、洋紙も和紙、選択にこまるほどの種類がある。 その中で、この紙を何故選ぶかということに理由はない。
私が何故このシリーズを作ったのかと聞かれれば「好きだから」としか答えようがない。能書きを述べれば、世界最高の紙とか、和紙の物語とか、紙の品位と格調とか、いくらでも話はできるが、それは物理的な特性と価格を正当化する選定基準とはならない。
斐紙の再現
今回の商品作りのために、正倉院文書の中に多く見られる斐紙の再現に挑戦している。千年前の和紙の再現である。
ここで大切なことは、千年前の和紙を再現することが目的ではなく「斐紙」を再現してみたら、その輝くような光沢と、強靱でいて優しい美しさにただ感動した。このあまりにも美しい紙を世に出したいと思った。
たとえ千年前の和紙を再現したところで、それが単なる復刻に過ぎない紙質であったならば、それを商品にして販売することなど考える事もなかったろう。
断っておかねばならないのは、私は和紙を礼賛し、洋紙をけなしているわけではない。 現代の世の中で、我々の身の回りの用に応えてくれるのは洋紙であって、和紙の世界など探さねばない事は十分に承知している。
今回の斐紙の再現の背景と言えば、日本には正倉院という世界でも類い希なる保存装置のお陰で千年前の紙が数多く保存されている。 しかも我々は、その現物を時折の展覧会で目にすることができる。千数百年前に作られた紙とは思えない状態と美しさにお気づきだろうか。和紙は千年を超えての保存性が実証されている世界で唯一の紙でもある。
日本の文化、工芸は、そのルーツをたどっていくと、殆どが渡来であることにたどりつく。紙も決して例外ではなく基本技術は渡来であることは間違いないだろう。
ただ紙の場合は靱皮繊維が原料であるだけに、風土自生のものへの転換は容易であったのだろう。今回復刻している斐紙の主原料は雁皮であり、雁皮は中国、韓国では使われていない、いわば日本オリジナルの原料である。
開き直りの商品開発
i+iの商品群は通常とは全く異なる商品開発の発想で考えることにした。 一般的に商品開発というのは、出発点となる企画、アイディアから始まり、市場の設定、開発コストなどの検討を経て、流通コストなどを織り込んで価格設定される。 その長いプロセスには様々な障壁があり、技術的な問題のみならず、開発とコストの問題は常に戦の場でもある。
企業は当然の事ながら利潤を目的として活動しているわけだから、結果は別として、設計段階ではビジネスとして慎重の上にも慎重にリスクの検討が加えられ勝算のある商品のみが、日の目を見る事になる。
今回はこうした通常の方法論を一切無視して、最高のものを作ってみようという事だけを考えている。一部の商品は驚くほど高価なものになったが、所詮趣味の領域であり、究極のこだわりの領域だ。 たとえ少数の人々であっても、最高級の和紙の魅力を存分に味わっていただく事ができれば、それでよしとしようと思う。
「i+i」ブランドの由来
まず、新参者のこのブランドの名前の由来を説明しておいた方が良さそうだ。 i+iというのは、二人の頭文字である。一人は奥出雲の斐伊川の里で江戸時代から続く紙漉七代目の井谷伸次さんだ。もう一人は私である。二人で、世界でも最高級のステーショナリーシリーズを商品化するためのブランド名として名付けたものだ。
和紙の美しさの虜になって久しい。
第一級の和紙の素晴らしさ、美しさをそのまま商品にできたらと思い、だいぶ前から商品化企画を考えてきた。
便せん封筒などの商品は当然のこととして考えられるのだが、何故か手が進まなかった。理由はと言えば至極単純なもので、和紙の便せんや封筒はたくさん市場にあって、新たな商品を送り出しても、競争のまっただ中へ自ら足を踏み入れるようなものだという事と、特に安価なものは、和紙とは名ばかりで、はたしてこれを和紙と呼ぶかという、紙の質の問題である。消費者はどこまで紙の質を理解しているのかという問題でもある。
現実に商品化するに当たって何が問題かと言えば、斐伊川和紙の井谷さんに頼んで上等の手漉和紙を使って便箋を作ると、とんでもない値段の便せんになってしまう。商売として考えると、とても成り立つ話ではない。
ある日銀座で、とても高価な便箋を売っているのを目にした。米国のブランドで最高級といわれているものだ。もちろん洋紙である。 和紙と洋紙を今の時代に比較することは、あまり意味を持たないのだが、和紙の組成、歴史、物語などどれをとっても話題にことかかない事は洋紙の比ではない。